京都の人は、人の自由を積極的に尊重するのである。

チェブ夫 京都について

 
京都の人のふるまいは、現代のルールやマナーで人を縛ることとは、大きく違うと感じるところがある。

チェブ夫

京都の人は、人の自由を積極的に尊重するのである。

 

 

京都には、市民運動の伝統が根付いているような気がする。今回の集団的自衛権のときもそうだったけれども、節目節目で、大都市大阪だけでなく京都でも、デモなどが行われる。

京都は都市の規模としてはずいぶん小さいと思うのだが、それでもけっこうな人が集まるようで、大宮で顔を合わせる20代や30代の若い人も、当り前のように出かけたりしている。

京都は共産党が強いと聞くし、学生運動でも、京都大学は大きな拠点だったろう。市民が政治に積極的にかかわる気風が、比較的強いのではないだろうか。

 

そのことと関係があるかどうかはよく分からないのだが、京都の人が、「自由」について独自の視点を持っているとは、以前から思っている。京都の人のふるまい方の大元に、「積極的な自由」が組み込まれている気がするのである。

一般に、個人と社会との関係は、個人の自由は、たとえば「人には迷惑をかけない」など、社会の事情によって制限されると考えられているだろう。そして社会の事情をまとめたものが、法律であったり、マナーであったりするわけで、人はそれらに従わなければならない。

でも京都の人は、それとはずいぶん違った考え方をするように思える。

 

京都で「マナー」という言葉を聞くことは、ほとんどない。かわりにしょっちゅう聞くのが、「空気」である。

空気を読んで、それにふさわしい行動をする。それが尊いとされているような気がする。

 

象徴的なのが、「エスカレーター」だ。全国どこでも、エスカレーターは左に乗るか、右に乗るかが決まっているのではないだろうか。

ところが京都のエスカレーターは、それが決まっていない。前の人が右に立てば、自分も右に立ち、左に立てば、左に立つとなる。

このことは背景として、「大阪が近いから」とも聞く。全国のほとんどの地域で、エスカレーターは左に立つものであるのに対し、大阪だけは、右に立つことになっている。

大阪の人は京都に来れば、右に立つし、それ以外の人は左に立つ。だから「どちらかが決められない」というのである。

 

それも「なるほど」とは思うのだが、それならば、「京都ルールを作ろう」という話になってもよさそうな気がするのだ。場合によって右に立ったり左に立ったり、くるくる変わるのは煩わしいから、いっそのこと、「京都は京都で統一したルールを作り、他の人にはそれに従ってもらおう」となってもよさそうなものだろう。

でも京都の人は、そうは思わないようである。前の人が立つのにあわせ、諾々と、右に立ったり左に立ったりするわけだ。

周りを見て、自分のふるまいを決めることが、身に付いているからだろう。

 

京都の人のこのようなふるまいは、ぼくには、「相手の自由を積極的に尊重している」ことと映るのである。

もちろん場合によっては、ある人のふるまいが、自分にとって迷惑だったり、不愉快だったりなど、「適切でない」と感じられることもあるだろう。でも京都の人はそういう時でも、「クレーム」などの形で抗議をしたり、指導しようとしたりなどは、あまりしないように見える。

適切でないと思える相手に、距離をおいたり、チクチクと皮肉を言ったりはするけれど、基本的に、「相手が分かるのを待つ」のではないだろうか。

 

もし相手が心から納得することになれば、それは抗議や指導でうわべだけを矯正するより、はるかに大きくふるまいが変わるだろう。感化力は、分かるのを待つほうが強いことになる。

またおそらく逆に、適切ではないと思っていた相手の中に、待っているうち、自分にはない、大事なものを見つけることもあるかもしれない。そういうとき京都の人は、それを素直に認めるのではないかと思うのだ。

京都は学術の街であり、京都大学がノーベル賞を多数獲得している通り、新しい発見に開かれているだろう。それは、京都の人の「人の自由を尊重するふるまい」が、背景にあるような気がするのである。

 

このように、人の自由を積極的に認めることは、現代の、ルールやマナーで人を縛ることとは真っ向から異なるだろう。

京都の人が、「反権力」と言われることが多いのも、この考え方の違いに理由があるように思うのである。

 

不愉快な相手を前に、相手が分かるまで待つことは、かなりの忍耐が必要となる。

でも京都の、多くの人が、若い世代に至るまで、それを受け入れる度量の大きさを持っていると感じるのだ。

 

「京都は奥が深いよね。」

チェブ夫

ほんとだよ。

 

 

 

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