『社会はどう壊れていて、いかに取り戻すのか』は、「カウンターの新しさ」を知るにはおすすめっすよ!

2016/01/03

金子勝・高橋若木ほか5人の共著『社会はどう壊れていて、いかに取り戻すのか』。

社会はどう壊れていて、いかに取り戻すのか

この本は、特に「カウンターの新しさ」を知るにはおすすめっすよ!

 

 

貧乏ヒマなし、せっせと仕事しないといけないから、本を読む時間はあまりない。(といっても、酒をのむ時間はある。)

それでも時たま、「これは」とおもった本は読むわけで、この

『社会はどう壊れていて、いかに取り戻すのか』

を読むことに決めたのは、まず筆頭著者の「金子勝」氏が、ぼくがもっとも信頼する学者の一人であること、それからツイッターで、フォローしている人たちが何度もとり上げていたからだ。

 

年末に、(クソ忙しいはずなのに)、冒頭の金子勝氏のところを読み、きのう、残りを読みきった。

5人の著者は全員「学者」、論文とまではいかないが、参考文献なども引用しながらわりとかっちり書いているから、読むのに多少の骨はあるが、いずれも「今の時代とこれから」を考えるためには参考になり、おもしろい。

そのなかでも特に、金子勝氏の書いた第1章はもちろんとして、

第4章『「街の群衆」の普遍主義』(高橋若木)

が、「なるほど~」とおもうところが多かった。

 

高橋若木氏は、名前ははじめてきいたのだが、大正大学教育開発推進センター専任講師。専門は政治哲学とのこと。

差別に対抗する運動「カウンター」に、2年前のスタート当初から現場の一員としてくわわったようで、この『「街の群衆』の普遍主義』は、そこでの体験をふまえながら、「カウンターの思想的意味」を氏なりに考察したものだ。

 

これまで社会運動には参加したことがなかったぼくだが、カウンターは、「非常な新しさがある」と感じる。

高橋氏も、

筆者は、カウンターの現場が、背別問題に取り組むことを通して、差別問題に限られない3.11以降の新たな社会運動の思想的特質を鮮烈に浮かび上がらせたと考えている。

とのべ、カウンターを「新たな社会運動」とよんで、その思想的内容を、従来の社会運動と比較しながら、その「新しさ」を詳しくあきらかにしているのである。

 

高橋氏は、旧来の社会運動と新たなカウンターとの比較を、

「『荒野の預言者』と『街の群衆』」

というイメージでたとえる。

旧来の社会運動家「荒野の預言者」は、弱者により添い、弱者をまもるために、「この社会はまちがっている」と声を上げる。

その際、荒野の預言者たちは、「自分たちこそは社会の悪に気がついた、選ばれた少数者」であり、「社会から外の『荒野』へ、みずからの意志ででた」とイメージし、その荒野から、社会のことを糾弾する。

 

それにたいしてカウンター、「街の群衆」は、あくまでも社会の一員。不正があれば、それを外から糾弾するのではなく、自分たちの力で、その不正がなくなるよう、直接的に行動する。

その行動は、「弱者をまもること」ではなく、「自分たちの社会が公正に運営されること」が目的。「人のため」ではなく、「自分たちのため」のものとなる。

高橋氏はこのことを、

「公正さとしての正義は、自由を愛するエゴイストたちのマナー」

と称する。

 

「街の群衆」の、「荒野の預言者」とは異なるこのようなスタンスが、起こりうるいくつかの問題を乗りこえる力をもつことを、高橋氏は理論的に明らかにしていく。

そのうえで、

「破綻を予感しながらも恐れなき民衆の足取りにこそ、未来社会の萌芽がある。」

と、いうのである。

 

高橋氏の考察は、ぼくがカウンターに参加しながら感じることと重なるところが多く、それが政治思想の歴史的ながれに位置づけながら語られるから、かなりの説得力がある。

カウンターに参加したことがなくても、

「これからの時代をどう切り開いたらいいのか」

を漠然とでもかんがえる人にとっては、読んでみる価値があるとおもう。

 

さて本を読みおわり、9時ごろから飲みに出かけた。

酒房「京子」

 

お雑煮と、

酒房「京子」

 

てっちりを食べた。

酒房「京子」

 

てっちりの、シメはうどん。

酒房「京子」

 

食事の後は、いつものように、そのままカラオケ。

酒房「京子」

きのうも、京子は盛り上がった。

 

カラオケを終え、ほとんどのお客さんが帰ったあと、残った年配の女性二人と、女将・京子さんが話している。

女性は、銭湯であまりにマナーの悪い人がいたから、何度かやさしく注意したが、最後には、

「ロクな死に方せえへんぞ~!」

と、罵りの言葉をあびせたとか。

 

京都の人は、ふつうはギリギリまで文句をいわない。マナーの悪い人には「イケズ」をし、相手が自分で気がつくように仕向けるそうだ。

しかしそれでもダメで、いざ言わなければならないときは、

「めっちゃキツイのよ~、京都人は」

とのことである。

 

 

京子をでて、はす向かいにあるダイニングバー「Kaju'」へも寄った。

Kaju

もう深夜2時をまわっていたから、マスターに新年のあいさつをし、1杯のんで家に帰った。

 

家に帰って電気をつけたら、2秒後にネコがやってきた。

ネコ

最近は、ぼくが「エサをくれる人」だと、すっかり決め込んだようである。

 

「お金もないのにのんきだね。」

チェブ夫

ほんとにな。

 

 

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